冬を待っていた、末端冷え性、献血。

冬が好きだ。私の場合、厳密には「10月から12月の終わりまで」が、その好きな「冬」にあたる。屋内の、閉ざされた空間と、パソコンの画面と、アニメーション、秋葉原の愛してる冬、寒そうなメイド。対照的に、一月から三月は、もっこりしているし、どいつもこいつもうるさいし、ださいし、テレビ局が躍起になってるし、卒業だか知らないけど変に感傷的だし、寒いから、苦手だ。

ある意味で西洋的な乾いた「冬」、ニュルンベルクやニューヨークのクリスマスを偶像として信仰するあの冬のイメージは、私にとっては日本ではその年中に賞味期限が終わる。

私は西側の地方都市の冬に生まれた。あんたはあそこで生まれて良かったと言われたことがある。まだ、助かったそうだ。そうか?何が?情けなく、生き急いで、三日早く出てきたと言う。12月に私の誕生日がある。静かな日だ。決して友人と酒を飲んで乱痴気騒ぎをする日ではない。

別に自分の体が冷えるのが好きなわけでも、「人々が厚着して保守的になる」のが好きなわけでもない。

冬には、布団や、浴槽や、衣服や、街が私を抱きしめてくれるような安心がある。

しかし、また、それはいい距離感を持っている。夏みたいに、べたべたと、ずけずけと入り込んでこない、理性的で大人びた眼差しで冬は人々を、私を眺める。

曇り空と、地面に反射する街灯、寒いから路頭に出てこないパソコン屋の店員、午後6時、まだ帰らなくていい、二百円しか払っていない神保町のベローチェの窓の席から表通り眺めて、ぼうっとする権利がある。買った漫画を読んでもいい。あの珈琲屋は、冬だけはクーラーで凍えさせて冷え性を追い出す類の店ではなくなる。

献血をした。何故と言うこともない、Twitterで見たからに過ぎない。私はまあ見ての通り純潔魔王でピアスも塞がっていたから要件は満たしている。初めてだったから、思った以上にいろいろ手続きがあって、そりゃあ体液をとるんだから、と当たり前のことを思い出す。精液をとる施設を想像する。たしかにたくさん書類を書いてたくさんのことを聞かれるだろう。

物(ブツ)を書き終えたら首から下げるタグと腕に巻く紙の輪っかを渡され、血圧を測るようにと言われる。131/70、ハタチの男性にしては高い。

そのレシートを持って4分ほど待ち、別のカウンターに向かうと、目の前のタブレットの問診を促される。「過去六ヶ月新しい相手と性的な接触をしたか」「男性と性的接触をしているか」「母親は中南米の出身か」「ピアス」「マラリア」「ジカ熱」無事にパスである。変なポーズで30秒間固定するよう命じられたりしたが、羞恥心が心地良かったのでパスである。

ややあって、医師の問診、簡単な血液検査を受ける。何という事はない。

いよいよ献血本番である。そこには六人くらいがずらりと同じような歯科の診療台みたいなのに深く座らされ、どちらかの腕に針を刺される。付属する小さなテレビのモニターのミヤ○屋を見たくなかったが、消すわけにもいかないのでイヤホンで音楽を聴いた。

しばらくして、看護師が突然何かをとりに行き、私の手に布に包まれた熱い物を握らせた。多分カイロだったと思う。どうやら、私の腕、手先が冷たすぎて血液が正常に出てこないために、温める必要があったそうだ。

実際この時、看護師の手を触って、初めて自分が末端冷え性であることを自覚したのだった。友人から手が冷たいと言われた事はあったが、彼らの体温が高すぎるのだとばかり思っていたから、意外だった。「ほらわたしの指の方が全然熱いでしょう、ね?」と指を触らせる50も過ぎたであろう看護師のすこしふっくらしたおばさんは、かわいらしかった。

冷血漢のくせに、冬が大好きな冷え性のくせに、一丁前に人にムラムラしてやがる。

死のうと思った回数について。

回数と書いている。回数など覚えているわけがなかろう。死のうと思った回数、なんて野暮なタイトルはやめるべきだ。

 

自殺を考えた、とカウントできるのがどの瞬間のことなのかはいまひとつわかっていない。ぼんやりと、家の布団に体操座りして天井を眺めながらクーラーを浴びている時のことも、含むのか、否か。

 

例えば、歯を磨いているときに蛇口を見て、ここに引っ掛けたタオルに首を入れ、バスタブの中に座ったらいける、とふと思ってしまった瞬間程度のことなら、十数回ある、といえる。回などというのは止す。

 

今を生きる20歳の、同い年の人間のことについて、私は多くを知らない。友達は多い方ではないし、ひとり仲のいい人間が居たとして彼のことを頭からつま先まで理解しようとするのは、思い上がりというものだ。彼のことは彼にしかわからない。実際には彼にも、わからない。

 

私が地元の高校生だった時分、私に好意を抱く変わり者の女の子がいた。当時私は綺麗でもチャーミングでもクールでもなかったと思うが、何が好きだったのか、一度会って問うてみたいものだ(何が好きなんて聞くもんじゃない、人を好きになる人間は大体それを言葉にはできない)。

 

彼女とデートに行った時、当時から根暗で気持ち悪かった私は、ふと「死にたくなったことある?」と聞いた、本当に恥ずかしい。彼女は首を傾げて、「ないかな」と言う。何回かしか会っていない男に「あるよ」と心を開いてしまう女性は少ないだろう、ごく自然な回答だったと思う。

 

しかし私は当時今よりずっと「厳格だった」。いままで生きてきて死にたくなったことがない奴なんて、存在するのか、そんな楽しく平々凡々と18年間過ごしてきた奴が、今私の前にいて、上目遣いでこちらを見ているのか、一体俺の何をわかっているんだ。罠ではないのか。俺が部屋の勉強机からハサミを取り出してその鋭利に恐怖して泣いていた時、彼女は何をしていたのか。受験勉強をしに図書館に行った帰りの地下鉄にて、誰かが私の頭の中でひたすら「No Future.」とささやいていた時、こいつはどこにいたのか。

 

結局私は彼女を振って東京に出てきた。いまこの歳になって、ようやくだが、本当にかわいそうなことをしたと思えるようになった。虚弱な私が健康な人を逆恨みしていただけであり(弱者が強者を憎むことは自然であるが、それはいつの世も悲しいものである)、もしくは私の若さゆえの人間理解の甘さ、対人関係の不慣れ、言葉足らずが彼女を苦しめ、悲しませたのかもしれない。

 

この記事で何が言いたいのか、死のうと思った回数が多ければ偉いわけではないし、それが刃になって自分を愛してくれる人さえ傷つけることもある。

又今まで希死しなかった人が未熟で愚かなわけでもない、彼には彼の苦しみがあるはずであり、苦しみや幸せなどは相対化することは不可能、子供を載せた年賀状同様、人に押し付けるものではない。

 

自戒

バイトを辞めたい奴に告ぐ、すぐ辞めろ

かくいう私は一時間前最後の勤務を終えてきたばかりなのだ。こどおじ、バイト退職。当たり前だろ。

平日は一限に出て九時間働き、休日は朝9時から夜9時までまるまる労働、他の日は授業に行っていた。

こんなこと人間はやっちゃいけない。私並みの、頭も悪く子供で腑抜けた甘ったれなら、尚更。

 

先月13日初めて精神科に行った際、そう、鬱病の診断が出なかったあの日、医者に言われた「バイトはシフトを減らすか辞めるかしろ」という旨の発言を踏まえ、次の出勤日に店の者に6月いっぱいで辞める意思を伝えた。

辞めて正解だったかどうかは、まだ一時間ではわからない。でもあの職場の年老いた陰険な労働者、品と金払いの悪い客の面を二度と拝まなくていいということはデカい。0か1で1だったのなら、辞めて良かったということになる。

 

バイトを辞めたことで、根源的な問題が解決するとはまったく思えなかった。何か、絶望に似た、喉に詰まるような、不安。どうしたらいいのか、何をして生きたらいいのか、これでいいのか、あれでよかったのか。下手な例えだが、ゴールが何キロ先かを伝えられない上コースも知らないマラソンみたいなものだ。私と言えば、他のランナーがいく方に走るだけ。

 

バイトは、最初、目の前で妨害してくる乗用車だと思った。黒煙を吐いて、止まったり動いたりして、こっちの調子を狂わせる。

しかし、あいつはじつは私に罵声を浴びせながら歩道を走る観客に過ぎなかった。彼をやっとの思いで怒鳴りつけて排除したところで、走る辛さと行先の不安はほとんど変わるところがない。なんならこの何ヶ月後、また金がない金がないと喘ぐかもしれぬ。

 

これはSNSなんかでリベラルみたいな論客が散々言い続けていることだが、学生のバイトははっきり言って時間の無駄である。東京都内の時給は平均値で1000円(これより低い人も山ほどあるだろう)と思うが、例えば私の通う私立大の講義は一コマ換算で3000円(100分)だ。

 

一時間の貴重な若い時間を千円で売ってしまうのはあまりにもったいなかろう。貯金なんて、もっと意味がない。生活に困ってない人間のすることだ。効率が悪すぎる。もっとも、卒業旅行でイギリスに行きたいとかFXの元手を作りたい、などと目的がある場合は全否定はできないが。

 

日本の最低賃金は、最高値の東京都で985円、最低値は複数の県で762円、よくよく考えてほしい、一時間働いたぶんをスロットに突っ込めばそれでおしまい、のお金と引き換えに若い貴重な一時間を売るのはどうなのか。本を読むも良し、友達と駄弁るも良し、思索に耽るも良し、ひたすら寝るも良し、私は、私個人は、若い時間をもっと楽しく意味のあるものにしたい。老いて疲れて保守的な店員たちの口喧嘩を聴きながら無心で袋にものを詰めるようなことは、脳が生きていて身体もまだまだ丈夫な若い人は、やるべきじゃない。

 

例えば、30歳未満の人間の最低賃金は、それ以上より少し高く設定する、なんていうのは、どうだろう。若い人間は年寄りと比べても労働効率がいいのは明らかだ。やらせるなら、若い時間を割くだけの代償は払っていただきたい。

 

若い人の体感時間と、老人の体感時間は、まったく違うそうな。無論前者は長い。ぼーっとルーティーンを過ごしていれば終わる人間と同額で働くのは、若い人間サイドから見れば気に食わない。

 

バイトを辞めたらどうするのかと聞く人があるだろう。親のすねを齧れとは、絶対に言えない。無責任すぎるし、そうできないから嫌だ嫌だと言いながらずるずる辛いバイトを続ける奴が大半だからだ。

 

いまのところ私の知識量では、時給のいいバイトを探してください、としか言えない。ギャンブルは、アレはダメです。金のない素人がやったら本当にマズイです。こないだ、競馬で一万すって、本当に馬鹿なことをしました。あの年老いた11番。遅いんじゃ、直線が。

 

初めて精神科に行った話。

人生で初めて精神科に行って来た。少なくとも身体は健康な方だから、大学に入って一人暮らしを始めて自費で病院に行くのは二度目で、2週間前に予約を入れて、本当はその時行きたかったのだが、普通精神科は当日予約で初診に当たれる所ではない。らしい。

 

大学に入ってからは一向に気分が晴れず、心から何かを楽しめず、不安で、常にイライラしており、人が嫌いで、頭もうまく働かず、もしかしたら今度こそ本当に、と思った。

 

兆候は高校時代からあったが、とても親に精神科にかかりたいとは言い出せず、ずるずると人にラインをしたり2ちゃんねるやTwitterでごちゃごちゃ雑談して誤魔化しながら5年くらい過ごして来た。自分は鬱病だと思いたかった。そう思うことで、自分が単に甘ちゃんで子供でわがままであるということから目を背けたかった。

 

受付を済ませ、高価そうなティーカップや皿などの西洋アンティークの入った戸棚とヨーロピアンな椅子の白色蛍光灯の待合室で一人端の椅子に座り携帯をいじること五分、白衣を着た、非常に声の小さい男が奥の扉から出、「○○さま、どうぞ」と言う。患者に「様」なんて、と思いながら、好奇心混じりの思いで診察室に向かう。

 

入った診察室は、まずアンティークの戸棚、医師の机、対面する椅子、医師の後ろに小さな本棚、白色蛍光灯、患者が座る椅子の後ろには落ち着きのない変な間のある部屋だ。

 

猫撫で声の医師は、ゆっくり、小さい声で、私から色々と聞き出す。大学には行けているのか、アルバイトは、趣味は、睡眠は、食事は。20分くらい息の詰まるような会話が繰り返されただろうか。

 

彼は自分の遅い筆で書いたメモを私に見せて、「気分の落ち込みは気になりますが、大学やアルバイトには、なんとか通っていて、最近、このー、アニメを見て、楽しかった、ということ、ここの辺りは、鬱病になると出来なくなります、鬱病の心配はなさらなくて結構ですね、しかし、不眠が、気になりますので、睡眠導入剤を、処方します。」たどたどしく語った後、彼は後ろの本棚から水色のカバーの本を取り出し、私に処方するマイスリーの説明を同じ口調で行う。こいつは、本当にこれで、この口調でいままで精神科医をやってきたのか、と思ったが、最後に「アルバイトは、シフトを減らすか、辞めるかしたほうが、いいと思われます、辞めたら、快方に向かうと思います」と言われ、思わず苦笑した。

 

精神科などというものは、所詮はネット上の「鬱病診断」みたいなものとやっていることは変わらない。タイプ別に人を当てはめて、病名と言う名のレッテルを貼って、薬を出して、彼を薬漬けにしてしまえば彼らの立派な顧客になる。簡単に言えば、虚学である。商売!患者の心に寄り添う、などと考える精神科医はごく一部だ。人は、語り得ないことを抱える生き物で、自分が20分だかなんだかでざっと聞いた話では彼をはかることは到底不可能である。アレは、嘘だ。帰依してはいけない新興宗教のようなものだ。幻聴が聞こえるとか、吐き気がするとか、そういう段階にまだ立っていないものにとっては、嘘でしかない。

 

病名のつかなかった甘ったれの私は、三千円也を支払い、処方箋を持って、いつもと変わらない憂鬱な街に出た。少し安心していた。本当に俺は単に甘ったれていて優柔不断なだけの子供だったんだ、とわかったから。

 

#メンタルヘルス #精神科 #アダルトチルドレン

初めまして、アダルトチルドレンとかいうやつです

アダルトチルドレン、とカタカナで書かれればまあかっこいいもんだ。

 

でも私はどちらかというと自分のことは「子供おじさん」と思っている。違いはわからない、ダサいかダサくないか、「子供おじさん」の方が生々しいと思った。

 

ブログのタイトルも、アダルトチルドレンの部屋とかにすればよかった、そんなのいっぱいありそうだが。

 

私がブログを始めた目的というのは、まあ、究極のところ、顔を知らない人間からの肯定が欲しいからだろう、何も言わず頷いてくれる、サンドバッグが欲しいんだろう、それは実はあまり重要ではない。むしろ私をサンドバッグにして欲しい。

 

同じような心理で生きていて悩んでいる人たちにせめて何か手を差し伸べられたらな、と思いついて、バイト帰りに電車に乗りながら、今やらなかったらこれ一生やらないな、と思って、いつも使ってるパスワードを今回も流用してはてなブログを開設した。

同時にツイッターの画面なんか開いてしまったので、これから知らない奴にログインされてしまう可能性が高い。

 

今自分の精神の構造を一番わかりやすく普遍的に説明する語として、子供おじさんひいてはアダルトチルドレンを選んだ。白状すると意味がわかっていなかったので、今調べた。

 

サイトを三つほど開いてみてみたら、どうやらAdult Children of Alcoholismという語の略称としてACがあるらしい。ちなみに私はここで脱落である。両親は酒を飲んで怒鳴ったり暴れたりする人間ではなかった(酒を飲んだ日に機嫌が悪く理不尽に正座させられて説教されたりはしょっちゅうだったが)。

 

http://www.yamanashi.med.or.jp/tsuru/onepoint/onepoint17.htm というサイトに、アダルトチルドレンの定義が載っている。

 
●ACOAの特徴(ジャネット・ウオイテッツ)

自分の考えや行動が「これでいい」との確信が持てない

物事を最初から最後までやり遂げることが困難

本当のことをいったほうが楽なときでも嘘をつく

自分に情け容赦なく批判を下す

楽しむことがなかなかできない

まじめすぎる

親密な関係を持つことが大変難しい

自分には、コントロールできないと思われる変化に過剰反応する

常に、他人からの肯定や受け入れを求めている
10
自分は、人とは違うといつも感じている
11
常に責任をとりすぎるか、責任をとらなさすぎるかである
12
過剰に忠実である
13
衝動的である。他の行動が可能であると考えずに1つのことに自らを閉じ込める
 
学陽書房1996「アダルト・チルドレンと家族」著/斉藤学より

 

 

 

まあ…大体どれも当てはまるけど、印象的なのは2と5と9か。習い事が続かず、授業を聞けず、バイトが続かないという点では確かにそうだ、映画も小説も音楽も、一部ほんとうによかったもの以外あまり楽しめていない。人に伝える時に話を盛る癖が治らない。

 

私が厳密にACでないと言える理由、思考が怠惰であること。甘ったれであること。

 

正直なところ、正しく楽しく人付き合いをして勉強も遊びも仕事もこなしている人たちにとっては、私のブログなどは唾棄すべき対象で、叱りつけたい気持ちでいっぱいになるだろう。

 

何が希死念慮か、笑わせるな、周りのことも考えろ、今あるカードで生きるしかないんだ、と。

 

聞き飽きた!一人の友人が私にハッパをかけてくれたその時から先にかけられたそれらの言葉は全て蛇足である。

 

文章の稚拙を、許せ。