死のうと思った回数について。

回数と書いている。回数など覚えているわけがなかろう。死のうと思った回数、なんて野暮なタイトルはやめるべきだ。

 

自殺を考えた、とカウントできるのがどの瞬間のことなのかはいまひとつわかっていない。ぼんやりと、家の布団に体操座りして天井を眺めながらクーラーを浴びている時のことも、含むのか、否か。

 

例えば、歯を磨いているときに蛇口を見て、ここに引っ掛けたタオルに首を入れ、バスタブの中に座ったらいける、とふと思ってしまった瞬間程度のことなら、十数回ある、といえる。回などというのは止す。

 

今を生きる20歳の、同い年の人間のことについて、私は多くを知らない。友達は多い方ではないし、ひとり仲のいい人間が居たとして彼のことを頭からつま先まで理解しようとするのは、思い上がりというものだ。彼のことは彼にしかわからない。実際には彼にも、わからない。

 

私が地元の高校生だった時分、私に好意を抱く変わり者の女の子がいた。当時私は綺麗でもチャーミングでもクールでもなかったと思うが、何が好きだったのか、一度会って問うてみたいものだ(何が好きなんて聞くもんじゃない、人を好きになる人間は大体それを言葉にはできない)。

 

彼女とデートに行った時、当時から根暗で気持ち悪かった私は、ふと「死にたくなったことある?」と聞いた、本当に恥ずかしい。彼女は首を傾げて、「ないかな」と言う。何回かしか会っていない男に「あるよ」と心を開いてしまう女性は少ないだろう、ごく自然な回答だったと思う。

 

しかし私は当時今よりずっと「厳格だった」。いままで生きてきて死にたくなったことがない奴なんて、存在するのか、そんな楽しく平々凡々と18年間過ごしてきた奴が、今私の前にいて、上目遣いでこちらを見ているのか、一体俺の何をわかっているんだ。罠ではないのか。俺が部屋の勉強机からハサミを取り出してその鋭利に恐怖して泣いていた時、彼女は何をしていたのか。受験勉強をしに図書館に行った帰りの地下鉄にて、誰かが私の頭の中でひたすら「No Future.」とささやいていた時、こいつはどこにいたのか。

 

結局私は彼女を振って東京に出てきた。いまこの歳になって、ようやくだが、本当にかわいそうなことをしたと思えるようになった。虚弱な私が健康な人を逆恨みしていただけであり(弱者が強者を憎むことは自然であるが、それはいつの世も悲しいものである)、もしくは私の若さゆえの人間理解の甘さ、対人関係の不慣れ、言葉足らずが彼女を苦しめ、悲しませたのかもしれない。

 

この記事で何が言いたいのか、死のうと思った回数が多ければ偉いわけではないし、それが刃になって自分を愛してくれる人さえ傷つけることもある。

又今まで希死しなかった人が未熟で愚かなわけでもない、彼には彼の苦しみがあるはずであり、苦しみや幸せなどは相対化することは不可能、子供を載せた年賀状同様、人に押し付けるものではない。

 

自戒